(前回までのあらすじ)
シナリオも改訂を重ね、その度に散発的に
ロケーションハンティングをしていたが、
東京で集中して改訂作業にかかる為、
製作部による先行ロケハンが行われていた…
そして本格的に始まったロケハン。
はじめに見に行くことになったのは商店街。
で、何を見るか。
「まずはここです」と、脇道に連れて行かれた。
細い路地にあるガレージ
「え?これ何」
「電話です」
確かにガレージの脇に緑色の公衆電話がそなえられている。
「…電話。って、そこの公衆電話?」
「はい。どうですか?」
「…いや、まずはもっとメインのヤツ見ようよ、不動産屋とか」
「…はあ。どんなイメージですか?」
「え?」
「どんなイメージの店ですか?」
「いや、台本に書いてある芝居ができるとこ。
今ここで僕が細かいイメージ言ってもしょうがないやん」
「…はあ…。でも言ってもらった方が」
「…。いや、ホン読んだら分かることやけど、
不動産屋ゆうてもフランチャイズじゃなくて、
家族でやってて、そんなに新しくなくて、
宏治の親の代からやってんねやろなぁと思えるような
いわゆる町の不動産屋で、奥か二階かに自宅があるとこ。
そのまま撮れれば最高やけど、
無理やったら続いてるように見せられるとこ。
屋根が緑で看板が筆書きで…とか
細かいことはこっちでも作れるし、
セット組めるわけちゃうねから、
ある中でいいヤツ選ぶしかないよね」
「…はあ」
てな具合で、重い空気のまま、
「道」とか「商店街」とか「川」とか
焦点の定まらない第一回ロケハンを終えました。
聞く所によると、その夜の飲みの席で
「監督にはイメージがない」と
批判されていたようです。
えーと、別にこの場所に愚痴や悪口を書くつもりはないので、
ご安心を。
要するにやり方や意識の違いが大きいのかな?と思いました。
商業映画の現場では、各スタッフがプロフェッショナルの意識を
強く持った上で「作品」や「脚本」に殉じるというか、
ホンを読み込んだ上で、その作品を良くするためのアイデアを
絞り出して提示したものを監督が取捨選択するというのが
一般的な傾向なのですが、
どうやら自主映画では、監督個人のイメージが非常に重視され、
各スタッフは「監督」に殉じているのではないでしょうか?
(推測なので反論あらばぜひ)
その後も延々と決まらないロケハンを繰り返しました。
ある日は
「今日は病院です」
「予定表に『○○内科』って書いてあるけど、これは中だけ?」
「いや、中は無理です」
「あ、外観だけ」
「はい」
「ほんなら看板付け替えて…?」
「いや、それも無理なんですけど」
「ほんなら撮影でけへんやん」
「え?」
「だって性病科って台本に書いてあんのに内科であかんでしょ?」
「ダメですか?」
「ダメです」
又ある日
近頃大阪でも目にする機会が減ってきた長屋式文化住宅の写真を見せられ
「近藤さんの家候補です」
「え?」
「あの、貸家のですよ」
「うん、いや近藤さんの家が分かれへんわけじゃなくって、
ここでどうやって愛人連れていった宏治が『なかなかええとこやろ?』って言えんの?」
「ダメですか?」
「逆に聞きたいねんけど、何でここがええと思ったん?」
「いや、家賃5万円なんで」
「知らんわっっ!」
みたいな日々が続くのでした…
しかし、映画作りは分からないものです。
同じ人が、最終的には素晴らしい不動産屋の
ロケ物件を見つけてきたのでした…
(次回へつづく)
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